POSTED Thursday, September 7, 2017 01:25
9回目の9月7日。
ELLEGARDENの活動休止から9回目の9月7日を、今年は東北ライブハウス大作戦のハコ、Klub Counter Action MIYAKOのある岩手県宮古市で迎えています。毎年この日は、必ずあの日の約束を果たすぞっていう気持ちを強くするとともに、今日までの道のりを振り返る日になっています。
この9年間で学んだことや、その間のたくさんの出会いが、今の自分の人生を形成してくれています。自分にはその全てが愛おしく、また心から感謝しています。支えてくれた人、応援してくれた人、強くしてくれた人、見守ってくれた人、出会ってくれた人、どこへ進んだらいいのかわからなかった自分にとっては、まるで灯台のようで、こんな遠くまで連れて来てくれたんだと、繰り返しになるけれど、ほんとうに感謝しています。
またエルレの4人で音を出す時には、随分と待たせてしまったことを心より詫びて、そうしてようやくの再会を喜びあうとともに、そこに至るまでの道すがらを共に歩んでくれた現在の仲間たちに、心から感謝したいと思います。その日が来る時はまだいつかわからないけれど、その時はもちろん自分を含め、全員を笑顔にしてやろうと思っています。
POSTED Wednesday, February 22, 2017 18:27
ネパール旅行記④ - 2017/01/30
ついに来たか。。
ネパールに来ようと決めてから、この瞬間がいつか来ることだけは分かっていた。それでもやはりなかなか勇気が出ない。このロッジには暖房がなく、一刻も早くパンツを上げて毛布にくるまらないと、翌日の体調を崩すことになるだろうという事実だけが、俺の背中を押してくれていた。
ここのトイレにはトイレットペーパーがない。たとえあったとしても、このトイレはトイレットペーパーを流せるようには出来ていない。ソッコーで詰まるのだ。そのため空港やホテルなどのトイレには、使用後のトイレットペーパーを捨てる専用のごみ箱があったりするんだけど、この山小屋にはもちろんそれもない。インドになかなか行けないのも、この、左手でケツを洗うという習慣に飛び込むのが恐ろしかったからだ。なんて臆病なんだ俺は。なんてこたあねえ。自分のケツじゃねえか。触れないなんてこたあねぇ。ふうう。いったれいったれー!
そうして旅は俺にまた新しい景色を見せてくれた。今ならわかる。なぜ左手は不浄の手なのか。そしてなぜこの文化圏の人は食事の際に右手しか使わないのか(地元の人たちはダルバートを手で食べるし、それは正直スプーンで食べるより旨そうだ)。わかる。俺にはわかるぜ。左手で喰ったら絶対腹こわすもんなこれ。
昨晩、牛と夕陽の写真を撮った後でふと、待てよ、湯のシャワーが出るって言うけど、それが本当に暖かいなんて保証はどこにもないぞ、陽が完全に沈んで気温が急激に下がる前にシャワーを浴びておくべきだ、そう思い部屋に戻ると、ああ、よかった。今日は頭が回っててよかった。体温より若干低めの、ぬるま湯と呼ぶには少し温度が足りないシャワーを浴びるのが、氷点下の気温の中でなくて本当によかった。全身の筋肉に力を入れて自家発熱をしながらシャワーを浴びる。歯はカチカチと音を立てるが、不思議と、今の日本ではなかなか味わうことのできなくなった不便さに再会できたことに、心は喜びの声を上げていた。きっと、なんだよこのシャワーつめてえよはやく日本帰りてえよこんな宿やだよ、なんて感じる人もたくさんいるんだろうけど、どうしてか俺はこっちの方が人間らしいよな、と感じたり、自分が旧来野生の動物だった頃の誇りのようなものが突き上げてきて、こういう時はだいたい笑顔になっている。ただしその後に訪れたトイレタイムは違ったけれど。
濡れた髪の先が氷りやしないかとヒヤヒヤしながら、大急ぎで体を拭き、持ってきた全ての衣服を着込むと、フードをかぶって晩飯を喰いに戻った。食堂では小さな子供が二人、おばあちゃんに髪をお団子にしてもらっている。その様子を、スキーウェアに身を包んだ、きっとこの宿のオーナーであろう大柄な御仁が、インドのテレビ番組を観ているふりをしながら優しい眼で眺めていた。食事を頼んでから小一時間経った頃に運ばれてきた、野菜中心のダルバートをかき込みながら、ここには時間をゆっくり使える贅沢や、持っていないことの自由さ、タイムラインに追い回されることのない生活があるんだな、と言うと、シンバはふん、そんな風に感じるもんなんだな、と男らしく答えた。
食事を終え部屋に戻ると、することがもう何もない。靴擦れの対策はもう思いついていたので、朝になったら作ろうと用意だけ済ませ、靴下も履いたまま布団に潜り込んだ。日の出は6時30分ごろのはずだ。目覚ましを5時にセットして、眠りに落ちた。
(↑夜明け前の部屋からの眺め)
部屋の窓からは谷を挟んで遠くヒマラヤ山脈がうっすらと見えている。窓のすぐ外にある大きな2本の木が、うすぼんやりと明るくなる空にシルエットになって浮かんでいる。シンバによるとこの木は幹が柔らかく、建材には適さないとのことだった。その2本の木は、正面にある木がやや高く、まっすぐ上へと伸びている。右側の少し背の低い木は、それでも精一杯太陽の光を吸収するべく、高い木の影をよける形で少し右へと曲がって成長していた。実際に触れ合ってはいないその2本の木が、お互いの存在で互いに影響されあっている様子を眺めていると、ああ、人の関係もきっとそういうことなんだろうなと思った。
太陽がいざ顔を出すその前には、いつも空が淡い乳白色に染まる。夜分には雨が降っていると勘違いするほど大きかったはずの、風に揺れる葉の音が、実はとても静かな夜にそう聴こえていただけだったと知る。カラスの一群が谷へ向けて飛び立つ頃、谷全体の生き物たちが自分と同じものを待ちわびていることに気づく。ある者はその興奮が抑えきれずに早めの歓声をあげている。遠くから昇る朝陽がヒマラヤの頂をまずは照らしだすと、ほどなくして夜と昼の境界線が水平になったころには、まるでライブの開演直前のような、野生の者達のオイコールがあちこちで巻き起こり、風に揺れる葉の音は、もはや意識を向けないと聴きとれないギターアンプのハムノイズのようだった。ちくしょう、Waiting For The Sunが聴きてえ。。iPodさえ忘れなきゃなぁ。
そうして、この世界のすべての生命の源である恒星・太陽が、名も知らぬ立ち木の向こうに現れた時、谷には祝祭のシンフォニーが響き渡った。知らなかった。彼らはこうして毎朝、自らの命を祝福しているのだ。その暖かな光を全身に浴びるとき、夜に生きるものはその一日の終わりを知り、厚い雲に覆われて陽の光を見ることができなかった日々の陰鬱ささえ、祝祭の盛り上がりの一部に変えているようだった。谷中の生き物たちがその命を声高く祝福するとき、少なくとも勘違いではないほどにははっきりと、自分もその一部であることを確信していた。
(↑部屋を出て、ロッジの端から眺めた朝焼け)
(↑朝焼けに照らされるヒマラヤ山脈)
朝食を終えると厨房からナイフを借り、昨日一日履いていた靴下の先に大きな穴を開けた。足を通しふくらはぎの下からくるぶしまでを覆うと、その上から新しい靴下を履く。次にトレッキングに出るときは、くるぶしソックスしか持ってこないなんて間違いはしないだろうな。やはり知識は経験と一体になっているべきだ。
トレッキング2日目、チサパニからナガルコットへの行程は約8時間、緩やかな下りを越えると、街や集落を通り、再び登りに入る。とはいえ初日のような高低差はないので、体力的にはずいぶんと楽だ。湿地帯を歩いた時に見た美しい池の姿は、この先もことあるごとに思い出すだろう。また時には小川と呼ぶにはあまりにも小さな流れを見つけては、都会にある人工的な自然も、最近はとてもよく出来ているんだな、なんてことを考えていた。まるで見た目は同じようだし、色も不自然じゃない。ただ決定的な違いは、この流れは誰が見ていなくとも悠久と流れ、たとえ人がここに道を作ることがなかったとしても、その変わらぬ美しさを、誰に誇るともなくただそこにあったということだ。
(↑この日の道中)
(↑それはそれは美しかった湿原と池。拡大すると中央に池が。ここにしばらく座ってました。)
(↑酸っぱいけどリフレッシングな木の実)
(↑ゴールは間近)
すっぺえ!と満面の笑顔で木の実を頬張るシンバとともに丘を抜け、大きな集落にたどり着いたところで、わかりきっていたことをあらためて聞いてみた。
「俺たちのペースってどんな感じなの?平均的にこれぐらい?」
「いや、俺たちは結構歩けてる方だと思うよ。時間も余裕だね」
「そうだよね。結構いいペースだから、時間あまりそうだなと思ってた」
「うん。夕暮れ前にはナガルコットにつけると思うよ。」
「そっか、じゃあさ、この村で俺にビール一杯付き合ってくれよ」
結局はこれが言いたかっただけなんだけど。:-)
地震の爪痕はそれこそそこらじゅうに見てとれる。弾ける笑顔で走り回る子供達の背後には、崩れたレンガが山積みになっている。人と自然。この国を今見ておきたいと思った直感を追ったのは正解だったみたいだ。今日の目的地であるナガルコットは、チサパニと比べるとずいぶん大きな集落で、高級リゾートホテルも続々と建設中だった。俺たちの宿も、2年前に地震で崩れたために、新築で立て直されたとても綺麗なホテルだった。前日のこともあり先にシャワーを浴びると、二日ぶりの熱いシャワーを浴びることができたが、なぜかちょっと物足りない気持ちになるのだった。
シンバと二人きりの夕食はこれが最後なので、食事後に少し二人で酒を飲んだ。暖房のない食堂で冷えたビールを飲むのはあんまり楽しいことじゃないのはわかっていたので、シンバおすすめのローカルリカーを頼んだ。穀物やハーブがどっさりと入った発酵した酒に、熱いお湯を注ぎ足しながら飲むトゥンバというお酒だ。シンバの目下の悩みはSNSに悪い評判を書き込まれて凹んでいることらしい。誰が書いたかもわかんねえコメントにいちいち付き合う必要はねえよ、俺の感想でしかねえけど、お前はいいガイドだよ、と言うと、本当か?それは本気で言ってくれてるのか?と言うので、日本人だって嘘ぐらい平気でつくけどよ、俺は今は嘘ついてないぜ、と言ってその夜の宴、つまりは、俺のはじめてのトレッキングに別れを告げた。(つづく)
(↑靴擦れ対策)
(↑宿に着いたとこ。バルコニーから)
さて、ここからは少し気分が悪い話かもしれない。それでも、この旅行記などを読んで自分も一人旅に出てみたいと考えてくれるような人のために、とても大切なことだと思うので書き残しておきます。
記事中のとても胸のすくような、美しい湿地帯の池に続く小径の入り口に辿り着いた時、そこには立ち塞がるように一人の男が立っていました。トレッキングの道中には軍の訓練場や、立ち入り許可証の発行所などがあり、トレッキングの行程に必要となる手続きに関わるオフィシャルな人たちはそれまでにもたくさん会っていたので、一目でその男がそういう類のものではないことは分かりました。日本でも酒場や街角で時折巻き込まれるのと同じあの空気を感じ取りはしたものの、現地のガイドであるシンバを見てその男はすっと横へ道を譲り、俺たちは何事もなくその小径を降りていくことができました。ただし、にこりともしないその男の脇を通る際、彼が背中側に回した方の手で隠していた大ぶりのマシェーテ(なた)を見ることができました。
旅はとても楽しいし、素晴らしい人たちに出会うことも多いけれど、世界中どこに行っても犯罪もあれば悪い人もいて、危険はどこにでもあるということは、決して忘れないようにしてください。俺はわりと無頓着にどこにでも突っ込んでいく質ではあるけれど、自らの身を無知ゆえに危険にさらすような真似をするほど馬鹿ではないとも思っています。笑顔で出された紅茶に入れられた睡眠薬で命を落とした旅人もいます。これは昏睡強盗が睡眠薬の量を間違えたケース。こういう旅をしていても、俺は実は一度もガードを下げたことはありません。鍵のかからない場所に置いた荷物を離れることも絶対になければ、打ち解けた相手と過ごす時でも財布やパスポートは別の小さなポーチに入れて体に巻いています。このマシェーテを持った男の正体は、いくら聞いてもシンバははっきりと答えませんでしたが、ネパールで急速に成長するツーリズムの中核である、年々増加するトレッカーを狙った山賊に命を奪われるケースも、ごくごく稀にではあるけれど発生しています。世界はそういう場所。もちろん日本も例外じゃなく。それでも世界を知りに出かけて行くことは、とても大切なことであるのと同時に、素晴らしい経験を与えてくれると思います。
POSTED Tuesday, February 14, 2017 05:25
ネパール旅行記③ - 2017/01/29
「もう2年近くもテントなのか。。」
トレッキングの出発点、スンダリジャルの街へと向かう車の中から、大きなテントがひしめき合う一画が見えていた。いくつかのテントに書かれた"US AID"の文字を眺めながら、想像などでは到底思い及ばないことは分かっていながらも、その生活はどういうものだろうと考えていた。2015年に発生したネパール地震により家屋を失った人々の「仮設住宅」であるテント群は、道中そこかしこに点在していた。
日本では、2011年の東日本大震災により現在も避難生活を余儀なくされている人たちが(昨年の時点で)約18万人おり、みなし仮設などを含む仮設住宅の入居戸数は6万戸を数える。災害公営住宅の建設は4割、宅地の引き渡しに関しては2割ほどが完了している。いつ訪れても暖かく迎えてくれるあの場所が、もう必要ではなくなったからと、最後の1戸が閉まる日はいつだろう。それはきっと1日でも早い方がいい。
(↑塀の向こう側にテントがたくさんある。右の白いのを拡大するとUS AIDの文字が。)
午前6時50分。耳に心地いいカトゥマンドゥの喧騒に目をさますと、どうやら今日はとても天気が良さそうだ。寝ぼけた頭で熱めのシャワーを浴びながら、昨晩訪れたバーのなんとも気持ちのいい光景を思い出していた。4畳ぐらいの小さなステージではハコバンが最新のワールドチャートを演奏し、決して広いとは言えないフロアでは、人々が銘銘楽しそうに踊っている。窓際の席に腰を降ろしてウィスキーを注文すると、背中越しにその光景を眺めていた。お気に入りの曲が始まった途端に上がる歓声と、彼らの笑顔を見ていると、自分が知らずにどこかに置いてきてしまった、とても大切だった何かを思い出したような、そんな気持ちになった。どこか人懐こそうな雰囲気で踊る女性が、窓際に陣取って蚊帳の外のような顔をした連中の手を次々と引き、半ば強引に立ち上がらせ始めると、ステージの前はウェイターが通るのも難しいほどの混雑になった。やべえ、このままだと俺も踊ることになるな、まあそれもいいか。俺の滑稽な踊りを見られたところで、彼等の酒のアテが増えるだけだ。そう覚悟を決め、いざ俺の真後ろの男が連れて行かれた直後に演奏は終わり、バンドが終わりの挨拶を始めたので、ほっと胸をなでおろしつつ残りのウィスキーを流し込んだ。
ドライヤーがないのも慣れたらなんてことないな、なんて思いつつ荷物をまとめ、ホテルのストアレージに残していくもの(もちろんPCは置いていく)と持っていくものを分ける。昨日急遽調達した追加のアウターや1リットルの水筒をバックバックに押し込み、トレッキングシューズを履くと、ああ本当に山に行くんだなという実感が湧いた。日本から履いてきたランシューがどうやら長時間歩き続けるには小さすぎることに気付けたのも、昨日一日カトゥマンドゥを歩き回った大きな収穫だ。多めの朝食をとり、これから2日間二人っきりで過ごすことになるであろうトレッキングガイドをロビーで待っていると、ほどなく聡明そうな瞳をした、英語の堪能なシンバ(仮名)があらわれた。この人となら長い道中の会話も楽しそうだ。
車窓を流れるストゥーパやテント群にひときわ目を引かれているうちに、1時間ほどで標高1460mの街、スンダリジャルに到着した。カトゥマンドゥの中心地を離れるとやはり空はとても広く、青い。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、さあ、人生初トレッキングの始まりだ。
(↑国定公園の入り口にあった看板)
初日は6時間ほどの行程。目的地のチサパニは標高2400mなので今日はその大部分が登りだ。神社の参道によくあるような石段を、数時間かけて延々と登っていくようなイメージ。ただもちろんそれだけじゃなくて、景色は刻々と変わり、林道のようなところもあれば一転して乾いた平地に出たり、とても小さな集落をいくつも通過したりする。以前から集落があった場所も含めて、自然保護などの観点から国定公園化されたため、彼等の住居は今では国定公園の中にあるのだ。シンバの話は予想通りとても含蓄があって面白く、それまで知らなかったたくさんのことを教えてくれた。例えば食べられる木の実のことや、消えゆくカースト文化が世代間で軋轢を生む構図など、知的好奇心が旺盛な人にはたまらないだろうな。木の実めっちゃうまい!
ある集落では学校のそばを通ったんだけど、その壁には"Education is the most powerful weapon which you can use to change the world(教育とは世界を変えるための最も有効な武器である)"の一文が書かれていた。その先には"Marriage can wait. Education cannot.(結婚は後回しにできるはずだ、教育はそうではない)"とある。年端のいかない少女が嫁がされていく現実があるのだろう。世界中で起きている問題だ。旅をしていると、人生をかけてそんな現実と闘う、素晴らしい人たちと出会うことがある。情熱と知性をもって、実際に世界を変えていく人たちだ。まるで生まれた時から何が正しいことかを理解しているような彼らを見ていると、この世界が素晴らしい場所であると、理解できそうな気がするときがある。そんなことをぼんやりと考えていたら、「結婚は後回しでもいいが、旅はそうはいかない、だよな?」と言ってシンバが白い歯を見せた。
(↑延々と続く石段)
(↑校舎の壁)
昼食を済ませ、さあ山登りを続けようと思っていたところ、
「違うよタケシ。山じゃない、ここは丘だ。ネパールでは標高が4000mを超えないと山とは呼ばないのさ。」
とシンバが言った。
「そうなんだ?はっはっは。じゃあこれはトレッキング、ってのは合ってる?」
「うん、これはトレッキングだよ。24時間以上の行程で、初日の出発地と宿泊地が違えばトレッキングさ。それ以外はハイキングって言うんだ。」
「そりゃ良かった笑。日本に帰ったらハイキングも行ってみたいよ」
ときおり山の木の実をほおばりながら、二人でトレッキングを続けていると、ふと突然視界が開け、目の前にヒマラヤ山脈のパノラマが広がった。この瞬間が、今回の旅のハイライトのひとつだったことは間違いない。そうか、俺はこれを見に歩いて来たんだな。この先の人生で、あと何回こういう瞬間に出会えるのかな。想像もしなかったような美しい景色はまだこの世界に腐るほどあって、どうしたってその全てを目にするの不可能だ。それでも初めてアンコールワットをこの目で見た時から、もっと旅に出ようという思いは強くなるばかりだ。木漏れ日のシャワーを浴びていると、どんなにCGが美しくなって、写真の解像度が上がったところで、自然と対峙する体験には到底及ばないっていう、ただそれだけの当たり前のことを、いやってほど思い知らされる。
ちょうどヒマラヤ山脈に背を向ける格好になった時、自分が歩いてきた丘の稜線がそれは美しいことに気付いた。思わず声が出た。俺は稜線になぜか昔から強く惹かれている。それはもうオブセッションと呼ぶ以外にない。でもなぜだか、稜線を眺めていると、人生の終わりを見つめているような、とても寂しくて、それでいて暖かいような気持ちになるのだ。決してツーリズムの名所なんかじゃないけど、俺にはその日一番の美しい景色だった。
(↑集落のヤギたち。食肉用。)
(↑後半でわりと平坦になった道中)
(↑。。。)
(↑丘の稜線)
だんだんと日が傾き、冷たくなった風にバックパックから取り出したアウターのジッパーを一番上まで上げた頃、チサパニの集落にたどり着いた。ここでも地震の爪痕は凄まじく、最初に目に飛び込んできたのは、レンガ積みの壁がすべて崩れ、柱と基礎だけが残ったロッジや、一階部分が崩れて大きく傾いたままの、かつてのホテルだった。シンバ曰く、国定公園の中ではとても細かい規制があり、今自分が歩いているこの道の左側には、新規の建設のみならず、既存の建造物に対する増改築も全く認められないそうだ。そのためここで山宿を営んでいた人たちの多くは、今はこの土地を追われ、半壊したままの建物もいずれすべて取り壊されることになるという。
少し靴擦れのした足でバックパックを部屋に放り込むと、食堂で待つシンバのところへ向かった。暖房のないこの宿でビールを頼んだのは間違いだったかなと思いながら、会話をするでもなくぼんやりと外を眺めると、一頭の牛が小道を登っていくのが見える。その背には夕日が輝き、一日の終わりをゆっくりと告げていた。(つづく)
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