息を飲む、とはこういうことを言うんだろう。しばらく呆然と立ち尽くした後、自分の心に現れたのは、この感覚はきっと写真には撮れないんだろうなぁ〜っ!っていう、諦めにも似たとても愉快な感情だった。予想もしていなかった景色に突然出会うなんてことは、国内を旅していてもそれなりに起きることだが、それでも、車同士がすれ違えないほど狭いカトゥマンドゥの路地裏に突然ストゥーパ(仏塔)が現れた時は、まるでそれが何百年もずっとそこで自分を待ってくれていたかのような、何か清々しいものに包み込まれるような錯覚に陥った。
カトゥマンドゥの路地から見上げる空はとても狭く、日差しの強いネパールでも薄暗い。もし自分が前だけを見て歩いていたのなら、間違いなく見落としていただろう。ガイドブックにさえ載っていないそのストゥーパは、人々が日々祈りを捧げ、その生活に深く溶け込んだもので、決して観光客が訪れるような大仰なものではない。それでもその日の自分には、何か特別な意味があるように感じられた。
(↑ふと右を見やると突然現れたストゥーパ)
さて今日は何をしようか、旅先の朝はいつもそこから始まる。ぐっすりと眠ったおかげでずいぶん頭はスッキリとしていた。思っていたよりずっと温かいシャワーを浴びている間も、タメル地区の朝の喧騒が耳に心地いい。ずいぶんと大きな笑い声が聞こえるが、彼らが何を話しているのかも、なぜそこに集まっているのかもわからない。濡れた髪で下着を替え荷物をまとめると、朝食を摂りに部屋を後にした。ネパールの食生活はブランチと夕食の1日2回だが、何が起こるかわからない今は、食べられる時にしっかり食べておこう。
幸いホテル(名前はゲストハウスだったけど、ここはどうやら普通にクラッシーなホテルだ)にはツアーデスクがあったので、翌日から2泊3日で行けるトレッキングコースを相談する。昨日ジョニーに聞いた通り、2泊3日だとチサパニ、ナガルコットをまわるコースが一般的だそうだ。もちろんそれがどんなところかなんて全くわからないんだけど。残りの宿泊は5泊あったけれど、何しろ初トレッキングだし、どこまで歩けるか予想が立たないのでまずはこの初心者コースを予約し、いざカトゥマンドゥの街歩きへ出発。前述のストゥーパには、その冒頭でいきなり出会ったのだ。
まずはどの街にもあるダルバール広場へ。カトゥマンドゥのダルバール広場は世界遺産だ。宿からほんの1kmほど歩くと、旧王宮のある旧市街、その中心にあるダルバール広場に出ることができる。ネパールに行ってみたいなあと思い始めたのは5年ほど前にさかのぼるが、当時写真で観たダルバール広場が今そこにはないことだけは知っていた。2015年4月に発生した大地震で、広場のほとんどの寺院が倒壊または半壊していると聞いていたからだ。広場で目にしたものは瓦礫の山と塔の台座、再建計画のお知らせや傾いた建造物を支える倒壊防止用の添え木。
(↑ダルバール広場の入り口に積み上げられた瓦礫)
(↑仏塔が立っていた台座)
(↑再建計画)
ところで、ネパールにはクマリという、女神の化身がいる。彼女は僧侶カーストであるサキャの家柄に人として生まれ、その後クマリとして選ばれると、両親の元を離れ、クマリの館というダルバール広場の南に位置する邸宅に住み、人々の病気治療のための祈願や占いを執り行う。今後クマリ信仰が王政の廃止(2008年)に伴ってどう変化していくかは、予想が難しいとのことだった。クマリの館は中庭まで入ることができるが、その出口で売っていた彼女の葉書を一枚買った。これがこの旅で唯一、自分用に買ったお土産だ。
ひととおりダルバール広場を散策した後は、どこかランニングができるような場所はないものかと地図をひらく。見ると、カンティ・パト(「パト」は「通り」)の東に大きな草地があったので、よし、そこを確かめに行こうと歩き出した。かつて世界中のヒッピーが訪れて賑わっていたという通称フリーク・ストリートを通る際、安くてよりエキサイティングな宿を探して一軒の目星をつける。山歩きから帰ったらここに来るのも悪くないな、なんて考えながらいざ草地へたどり着くと、あら?あららら?そこにはよく見た光景が。あらー、ステージあるじゃん。フェス?フェス会場なのここ?
(↑ほら!よく知ってる感じ!)
人でごった返す入り口をふらふらと吸い込まれるように入っていくと、ありゃー、こりゃあフェスだわ。まずは機材に興味津々。スピーカーがラインアレイだったので、おおー、しっかりしてんなぁ、まだバンドは始まんないみたいだな。。なんか挨拶みたいなのしてるしな。。それにしても広いし人めっちゃいるなあ。。なんかめっちゃみんな見てくるな。そういえば外人ぜんぜんいねえじゃん。ってか俺だけじゃん。すげースニーカー見てくるな。ZOOMシリーズ珍しいのかな。。それにしても出店いっぱい出てるなー。。昼飯がフェス飯になるとは思ってもみなかったぜ。こりゃあはずすわけにはいかねぇぞ。一回向こうまでぐるっと見てから決めよう。。あー綿菓子売ってますねー。でもこの気温で溶けない綿菓子だから多分俺が知ってるのとは違うんだろうな。。ほい、最後まで見ましたよ、っと。っておい!振り返るとヒマラヤ見えてんじゃん!!初ヒマラヤ!きたーー!!よし、飯はここにしよう!えーと、モモ?だっけ、あのモモ?ください。はい?あ、じゃあえーと、フライドモモで。あとビールも。うぇっへっへ、昼ビール贅沢なあー。。なんて着席とあいなったわけです。
初めてのモモをのんびりと味わい、大瓶が空になっても演奏は始まらない。んーと、あの、これってなんのフェスなんですか?ああ!民族独自の新年を祝うお祭りなんですか!へー!125民族もいるの!?そっかあー!どうりで!
そうして宿へ戻ると、まだ日没までは2時間ほどあった。ならばいざ、スワヤンブナート、通称モンキー・テンプルへ行ってみよう。地図上では3kmほどだ。川を渡り丘を登ると、そこはカトゥマンドゥ盆地がまだ湖だった頃からそこにあったと言われる世界遺産、スワヤンブナート寺院だ。ひときわ大きなストゥーパを中心に、寺院や巡礼者の宿泊所などが立ち並ぶその光景は、まさに思い描いていたネパールそのものだった。
(↑丘の上に見えてきたスワヤンブナート)
(↑ブッダアイ。いつ見ても惹き込まれる。)
(↑。。。)
(↑カトゥマンドゥを一望する)
カトゥマンドゥの街を一望できるその丘からしばらく、この旅や自分の人生、果たしてこれからどこへ行こうかとひとしきり思いを馳せたのち、さて暗くなる前にタメルに戻ろうと歩き出すと。。
「エメリヒ(仮)!エメリヒ(仮)じゃないか!」
「おー!タケシ!」
そこにいたのは昨日屋上のカフェで出会ったドイツ人、エメリヒ(仮)だった。欧米人になかなか覚えてもらうことのできない自分の名前を、一度話したきりで正確に覚えていたエメリヒ(仮)に少し驚きながらも、再会の喜びに浸る。まさか、ネパールの寺院で知り合いに会うとはね。
「偶然だね。どうしてた?あ、新しいジャケット買えたんだ。いいじゃん似合ってるよ」
「そうなんだよ。ありがと。そういえばすごいいい宿を見つけたんだ。モンキーモンキー(仮:全然違います)っていうとこ。今そこで出会ったみんなと来てるんだけど、タケシも一緒に来ないか?」
「ははは。いいよ。俺一人の方がいいんだ」
「はっはっは。それもわかるよ。じゃあまたね」
「うん。またね」
と言った会話の終わりに、モンキーモンキー(仮)からの数名が合流して、軽く挨拶を交わした。その時の雰囲気がとても心地よかったので、トレッキング以降の宿の候補がまた一つ増えた。丘を降(くだ)り、さっき渡った橋を逆方向に渡る。陽が傾き、街が少しずつ茜色に染まっていく。子供達が元気に走り回り、砂埃の舞う風に顔が乾く。孤独な心はなぜか突然満たされ、全く何のまえぶれもなく、ふと涙がこぼれそうになった。この時の感情を正確に表す言葉や表現を俺はまだ知らない。一番近いものは何だろうかとしばらく考えたが、きっと最も近いものは「感謝」だろうと思った。(つづく)