ナイルをボートで渡る。朝食にクロワッサンと紅茶が出たけど、その味はほとんど覚えていない。それぐらい美しかった。
対岸で待機していた別の白いバンに乗り込み、ナイル西岸 - ウェストバンク - に点在する遺跡群を横目に走ること10分ほどで、野球場が2つは優に入りそうな、巨大な気球乗り場に到着した。気球ツアー会社は複数あるようで、自分たちの乗る気球が膨らむまでの間、初めて間近で見る気球を見上げては、その大きさと穏やかさにひととき安心する。早朝のフィールドに響くのはバーナーを景気よく吹かす音だけ。韓国から来た子供と何気ないコミュニケーションをとるうちに、なんでこの子たちは世界共通で美しいのに、と思った。
アフメッド君のお父さんが買ってくれたポテチはこの子のおやつになりました。
10分と待つ事なく我々の気球の準備が整い、階段状のステップからバスケットに乗り込む。こんな籐細工で大丈夫なのか??なんて思うのも束の間、パイロットが気前良くバーナーを吹かすと、気球はふわりと宙に浮き、どんどんとその高度を上げていった(注:籐細工は耐久性も強度も、ランディングの衝撃を和らげるのにも最適な素材だそうです)。気球の乗り心地はなんとも不思議。方向舵はないため、パイロットは行きたい方向に風が吹いている高度を見つけて、気球をルートに乗せるのだ。ナイルから西に少し飛ぶと、いよいよハトシェプスト葬祭殿や王家の谷が座す、エル=クルーン山を含むネクロポリスが見えてくる。なんだよ、すげえじゃねえかこれ。ナイルの両岸に沿って広がる穀倉地と、その周りに広がる対照的な岩と砂だけの山々。朝もやに照りつける太陽。もやの向こうに微かに見える稜線は、昔から自分の好きなものトップ10に入っている。地面に落ちる気球達の影を目で追うかたわら、眼下に広がる家々の中には、きっと今まさに二度寝を楽しむ人や、朝食の用意をする母親や、走り回る子供達がいる。幸あれ!
色とりどりの気球。高度は正確には忘れてしまったけれど、とにかく高い!
地平まで広がるそのすがすがしい景色を吸い込みながら、うっすらと意識の底に恐怖が広がる。さっすがに高えな。バスケットの縁が腰と胸の間ぐらいの高さにあったから、地上で平地、なんにもない状況で思わずその高さの敷居を越えてしまった、なんてことが起こる可能性を考えてみると、まあそうそう起こりそうにもない。あんまりにも無痛覚で、何をしてもほとんど怖いなんて感じなかった頃から考えると、こーゆーのも面白えな、と他人事のように思った。もしかしたらルクソールにいるのは一生で今日だけかも知れないのに、そんなこと考えてるの?そう訊ねると、心はそっか、と怖がるのをやめてくれたように思う。
気球から見た王家の谷。盗賊に見つからないように、決してナイル流域の集落からは見えないよう、エル=クルーンの裏側に、王家の墓が密集して祀られている。上空からその歴史を眺めていると、ふと、砂漠の夜に迷子になった心が、まだ完全に戻って来てはいないことを自覚する。周囲のすべてが清々しく、何も心を波立たせるものがないときにこそ、自分の心の穴はますますはっきりと浮かびあがり、努めて今を楽しもうとすればするほど、吸い込まれるようにその暗がりに沈んで行く。いつかこの習慣を終わらせる事ができるのか。贖罪の心が痛まなくなる日は来るのか。今のところそんな日がやって来る気配はない。
中央やや左がハトシェプスト葬祭殿。その背後にある削られた山が、王家の谷。
休閑期の畑にソフトランディングで着陸すると、子供達がバクシーシ(喜捨)に集まってきていたのだが、スタッフに制されてある程度の距離を保ったまま、迎えのバンに辿り着くまで我々旅行客の一団に追従していた。一番もじもじして離れていた子にこっそり1ポンドを渡して助手席に乗り込むと、バンは再び川辺へと向かった。やあやあ、気球すげかった!
「あのさ、俺ウェストバンクの船着き場で別れてもいいかな?ハトシェプスト行くのにいっかい向こう岸まで渡ってたら時間の無駄だと思うんだよ。ボートには乗らないで、ウェストバンクの船着き場でタクシー探したいんだ。」
気球スタッフ「んー?ま、いいんじゃないか?問題はないだろ。ところでお前、タクシー探してるんだったら俺の友達紹介してやるよ。いいドライバーだぜ。」
「ふーん?2つ3つ遺跡を回って、2時半にはイーストバンクのホテルまで戻りたいんだ。それでいくらかな?」
気球スタッフ「ちょっと待ってろ。今電話するから。」
その友達と二人で分けるんだろうな。なんて考えてるうちに彼らの話はまとまったようだ。その瞬間の彼は完全に、気球会社のスタッフとは違う、エジプトで出会う人たちから感じるよく知ったオーラを放っていた。
気球スタッフ「150ポンドでどうだ?」
「高いなあ。100ならいいよ。」
気球スタッフ「高いか?でも120が限界だ。どうする?いい話だろう?」
まあなー。。ルクソールの客引きはたち悪いってみんな言うからなあ。ホテルで400ポンドだったのが120なら悪くないか。
「わかった。交渉成立ね。」
車両前部で商談が持ち上がっている間、後部座席では韓国人の男性が流暢なアラビア語を話していた。なんでも5カ国語を勉強してるらしく、韓国の人たちに対して常々感じていた「努力を惜しまない」印象が、更に強まった。5カ国語は初めてだったけど、バックパッカーには結構な確立でトライリンガル以上がいる。俺もなんかもういっこ喋れるようになりたいなあと思わされるのだが、日本に帰ると忙しさを言い訳に先延ばしにしちゃうんだなー。
船着き場に到着し、桟橋には降りずにボートに乗り込む人達を眺めていると、さっきの気球スタッフが手招きしている。ドライバーを紹介するのかと思ったらボートに乗れと言う。はぃ?
「イーストバンクには戻らないっつったじゃん。」
気球スタッフ「でも俺の友達はイーストバンクの船着き場で待ってるんだから、ボートに乗れよ。」
は?話聞いてたのか?てかなんでこの船着き場にもタクシーいっぱいいるのに、わざわざお前の友達のタクシーに乗るために川渡るんだって!
「時間ないから戻れないんだってば。いいよ自分で見つけるから。までも、ありがと。」
気球スタッフ「でももう呼んじゃったんだよ!」
うん。それは知らねえ。
「ほんとに今日時間ないの。気球は楽しかったよ。ありがと!」
デザートを取り上げられた子供のような目をして立ち尽くす彼をその場に残して踵を返すと、砂利道のロータリーに向かって歩いていったのだが、そこで件の韓国人とすれ違った。
5カ国語の人「あ、ここでお別れ?」
「うん。このまま遺跡回りたいんだ。」(←ここまで英語)
5カ国語の人「そっか。えーっと、さようなら!」
「お、日本語も分かるんだ?さよなら!」
5カ国語の人「でもエジプト来る前にアラビア語ばっかりやってたから、日本語忘れたよ!」
そう日本語で話す彼に思わず「喋っとるやんけ!」と突っ込みそうになりながらも、先を急ぎたかったのでここでお別れ。
「はっはっは!そっか!良い旅を!」
5カ国語の人「君も良い旅を!」
西岸のロータリーで見つけたドライバーは、俺がエジプトで乗ったタクシーの中でもダントツの正直者。名前は残念なことに忘れてしまったんだけど、同じく120ポンドで交渉成立。やったね!(中編に続く)